きっかけは単純なもの

合掌

きっかけは単純なもの

葬儀屋を志す理由とは

遺体、明日への十日間で登場した葬儀屋をしていた人の活躍によって、安置所で多くの遺族の心のケアをなしとげながら運ばれてくる遺体一人一人に声を掛けて、そして丁寧に扱っていく姿が何より印象的だ。だがこうして考えると葬儀屋という仕事を本当にやろうというきっかけになる瞬間とはどんなときなのかと考えてみると、正直普段の生活では中々そんな場面に出くわすこともない。ただ探してみるとやはり身内の死によって、それまでただ安穏と暮らしていた中で起きた非現実めいた事実と直視したとき、真っ先に何をすればいいのかと考えられないという。

葬儀屋を志そうとするきっかけになるのも、やはりそうした死の瞬間を目撃することで自分たちが出来る事は何か、また死んでしまったからといってそこで立ち止まるのではなく、ちゃんと手順を踏んで送り出すことが残されたものがなすべき仕事であるということに気付かなければならない。そうしたとき、遺族として困っている際に葬儀屋の心遣いが傷ついた親族の傷を癒し、中にはそうした献身的な業務をこなすことでより深い信頼を得ることが出来る。

そんな運命的とも言える職業との出会いはいつ起きるか分からない、だからこそそんな時こそ葬儀屋に対して偏見などを抱くことを忘れる瞬間となる場合もあるのだ。ここでは1つの体験談を元に考察を加えていこう。


突然の父の死、葬儀屋との接触

それは突然起きた、ここで語られる体験談の主人公をAさんとしよう。彼は大学卒業後、公務員になって平々凡々な生活を過ごしていたが、ある時父親が体調不良となり精密検査をすると、胃がんであることが発覚する。その後すぐさま緊急手術を行なうことで何とかなったが、それで解決する事はなかった。がん細胞は他の内臓器官に転移しており、そこから懸命かつ過酷な闘病生活を過ごすことになる。両親共に現役で仕事をしていたため、Aさんとその母親は仕事をこなしながら交互に父親の見舞いと介護をこなして行く。

この時はきっと良くなると信じていたが、Aさん家族を襲ったのは悲しくも、残酷な現実が待っていた。父親は癌宣告を受けてから半年と経たないうちに、この世を去ってしまう。享年63歳とまだ若すぎる死だった。あまりに急な事態に母親は悲しみに暮れて毎日泣き続き、Aさんも呆然とただ父の遺体の前で立ち尽くしているだけだったという。茫然自失となったAさんに対して病院は、葬式についての算段は何か決めたのかと尋ねる。まだと答えると、病院を仲介してある葬儀屋の初老男性が現れた。その男性との邂逅こそ、Aさんの将来をも左右する瞬間と、日々の始まりとなる。

献身的な葬儀屋と感化されるAさん

その後父親を自宅に搬送すると、葬儀屋の男性は腐らないようにドライアイスなどの保全に取り掛かり、枕飾りを設置して生前と変わりない状態で自宅へと送り届けることに成功する。その後Aさんは整理が付かないまま、葬儀屋の男性と今後の打ち合わせをするために話をする。そこは混乱してどうしていいか分からない母親もおり、二人並んで話を聞いてみると葬儀屋の男性の、遺族に対する配慮で次第に2人は落ち着きを取り戻していく。

親身になって遺族の言葉に耳を傾ける男性に対して、Aさんと母親も亡き父への思いを語りながら、葬儀に必要な資金でこれくらいなら出せるという条件を提示しながらも、平穏を取り戻しながら父の葬儀に向けた準備が着々と進行していった。この時Aさんは事務的な話、それこそ金銭に関する話をするだけなのかと思っていたが、そのような雰囲気を出す事無くただただ3人で暮らしていた思い出を話して、父への思いを吐露していったという。いつの間にかAさんとその母親は心の整理をようやく行うことが出来るようになり、父親を見送るための準備が整うのだった。

恙なく葬儀を終えたAさんは葬儀屋に対して感謝の気持ちで一杯になり、こうして自分のことのように家族がなくなった人への配慮と、遺体という非現実的な場面に立ちながらも決して目をそらす事無く事実として立ち向かう姿に感化されて、葬儀屋を志すようになったという。偏見を持たれていた仕事ではある、そして中には悪質な葬儀屋もいるが、そういった人間ではなく、ただ純粋な意味での葬儀屋に出会えたからこそ、悔いが残る事無く、無事にすべてを終えることが出来たといえる。そういう意味では運が良かったといえる部分もないとは言い切れない。


葬儀屋の存在意義

ビジネスとして考えれば今後も、葬儀屋というのは大いに活躍することになる業界かもしれない。ただ彼らのシステムが金銭に関係なく、そして遺憾なく発揮されるのはおそらく震災などの有無を言わせず、大量の人々が突如として死亡した事件などで活躍をするだろう。今回題材の1つとして取り上げた『遺体、明日への十日間』でも語られているように、遺体の中にはまだ道が長く続いていた子供の遺体が運ばれてくることもある。そうしたとき、その子の死に顔を直視できるような人は親であっても見たくないものだ。

ただ葬儀屋としてみれば、例えそうであってもキチンと送り出す、ようやく家族の元に帰れたことを喜び、そして慈しむことでその存在意義を確かなものにすることが出来る。偏見を持たれる業界かもしれないが、葬儀屋という存在はこれから先起こるとも知れない震災においてこそ、その真価を知ることが出来るだろう