作品に対しての意見

合掌

作品に対しての意見

演技を見て何を感じるか

残酷な映像を連続して見続ける事になるが、もしも今度は自分たちが実際に被災した場合にその現実を直視することになる。その時、何が出来るのかと考える必要がある。事実から目を背けて、楽しいことだけを直視する事はとても簡単だ。嫌なことを目撃してもそれで全てが自分の中では解決するが、それで本当にいいのだろうかと思ってしまう。

この作品は映画作品ということもあって、どうしてもリアリティさが感じられないという人もいるかもしれないが、それを事実とした被災地でそんなのん気な台詞を語れるだろうか。いつか自分が被災したとき、そんな惨状が続く中で自分の家族を探していかなければならないと考えても、空恐ろしくなる。精神が破綻するかもしれない、そして生き残っても残されている場所に糧となるものは無い。今こうしてインターネット上に残されている映像・写真・動画のどれを見ても分かると思うが、そこに震災によってすべてを失って途方に暮れる人もいれば、まだ幼い我が子が自分たちよりも先立たれてしまった中年夫婦の姿など、そこに一抹の希望を感じる隙もない。

それらすべてを表現するべきだと語るが、どんなに頑張ってもリアルタイムを思わせるような演技をするというのは、この作品に関しては無理と言えるだろう。実際に経験していればそれも可能かもしれないが、経験することが出来ないものだ。それを表現するためにも、自分という個がどのように感じ、そしてそれに対して自分はどうするべきなのかを表現できる役者陣として、筆者からすれば申し分ない役者ばかり揃っていると言える。評価の是非は様々だが、ただこの作品は多くの人が語るように構成に残しておきたい作品であると話している人が多い。

映像作品として

映画だからこそ表現できた、被災地の死体安置所の模様を被災者本人からすれば、できることなら二度と目撃したくない光景だろう。ただ事実を知らず、メディアから流される情報だけしか見聞きしていない人々にすれば、その様子を例え映画という表現であったとしても、事実を捻じ曲げていないシーンを望むはず。そしてそれを表現する役者達の中で、誰もがやるかもしれない行動を演技として表現した役者がいる。先にも話した女優、志田未来だ。彼女のその演技は度々話題としてピックアップされ、それをする姿は誰でも感じるリアルさをかもし出しているということになるのかもしれない。

そのシーンとは、運ばれてくる遺体から目を反らして、屈むというものだ。これを一般的な映像作品として、女優として考えた場合に正しい演技かどうかを考えてもらいたい。顔が完全に隠れ、カメラでその様子を捉えることが出来ない映像を、監督を始めとした製作陣からすれば了承するかと考えると、これはまず無いだろう。どんなに辛い作品でも表情を出さなければ意味がないと、映像だからこそ、その悲しみをキチンと表現しなければ役者では無いなどというかもしれないが、その様子を君塚氏は遮る事無く放送している。

これが何を意味しているか、それはその演技が志田さん本人が感じたまま、そして自分ならこうしてしまうかもしれないという形を演技という枠に当てはめて表現した結果だ。その姿に、自分よりも幼く小さい子供の遺体と直面したとき、一人の女性としてではなく、これまで公務員として何か特別な日常が起きることもないルーティンな毎日を過ごしていた女性だからこそ、まざまざと繰り広げられる現実と対面したときに出る、ありのままの行動では無いだろうか。

おそらく、この演技は彼女だからこそ出来たものだろう。どこぞのアイドルが女優の真似事をしたなら、作り涙の安っぽい演技になっていたかもしれない。そうなると真実から遠ざかる、ただのエンターテインメント作品と化してしまう。そうすることによって、やはりありのままに起きたはずの事実から乖離することを、製作陣は一番危惧した。だからこその俳優、真実にこだわったからこそ表現される、主演の西田敏行さんを始めとした人々の姿と、運ばれてくる遺体に対して真摯な面を考えるべきなのか、そんな部分までも克明に表現されている。


遺体とどう向き合うべきか

この映画作品において役者などに文句がある、不満が残るといったような意見も見られるが、筆者の見解からすればそこは注目するべきところでは無い。確かに演じている役者全員が演技派である事実もあって、作品が大いに評価されているが今作で一番焦点となっている部分を見誤ってはいけない。それは『遺体とどう向き合うべきか』、ということだ。

現実離れしすぎている、想像することが出来ないかもしれないが、これを考えたとき自分の身内以外の他人にも情を持って接することが出来るかどうか、そこを考えてもらいたい。筆者が初めて遺体を見たのは母方の祖母が亡くなった葬儀でのことだ。だが筆者はその時自分でも分からないほど、悲しいという感情に苛まれた。親族一同が涙に枯れる中、筆者も確かに悲しかったが、目に見える涙を流す事は無く、ただじっとエンバーミングされた祖母の顔をじっと見つめただけだった。

多分現実感がなかったからなのかもしれない、元々離れて暮らしていたせいもあり、祖母に対して強い感傷を持っていた訳ではなかった。勿論家族という意識はあったが、そこに大切という感情があったのかは今になって考えると分からない。例え身内であっても筆者のように感じている人は少なくないのでは無いだろうか。異常なのかも知れない、だがそれくらい遺体というものと触れ合うことがないほど、この日本という国は平和なのかもしれない。

被災地ではそうした遺体を何十、何百と目撃することになる。その時人の尊厳を持って、キチンと『死体』としてではなく、『遺体』として尊重しながら扱うことこそ大切なんだと、そしてその状況に立たされることで初めて気付くこともある。この作品はそうしたことに気付くことこそ、一番重要な点なのかもしれない。